歴史のある大展望の岩山
−岩櫃山−

【年月日】

1994年11月27日
【同行者】 単独
【タイム】

密岩通り入口(9:47)−岩櫃山(10:27)−岩櫃城趾
(11:21)−密岩通り入口(12:20)

【地形図】 群馬原郷

麓から見上げる岩櫃山
 吾妻の山のなかでも岩櫃山は郷原駅あたりから見ると、絶壁をまとった山容がまことに秀麗だ。

 密岩登山口から、南面の大岩壁を見あげながらゆるゆる登る。
 中高年のハイカーがずいぶん多い。

 とりつきから鎖場をまじえた急登が続き、息があがってしまうが、ゆっくり行っても20分ほどで尾根の上。
 北から冷たい風が吹いてくるので寒い。
 山頂の方向へ登っていくとすぐに、天狗の架け橋という短いが幅の狭い平均台状の岩場。
 岩場、岩穴、鉄バシゴをたくさん通るがすぐに山頂。

 ほぼ360度すべてが見渡せた。
 すぐ近くの吾嬬山、薬師岳、高田山、榛名山と赤城山、嵩山の向こうに見える薄く雪を被った吾妻耶山、目の前にそびえる十二ヶ岳などなどが印象的だった。

 東側への下山ルートは垂直の巨岩の間を縫う下り。
 尾根に出ると原町への分岐、さらに赤岩通りと岩櫃城址の分岐。
 せっかく岩櫃山に来たのでいろいろ見物したいと思い、ここは岩櫃城址への道に入る。
 スギ林の「本丸北桝形虎口」というところに出ると、岩櫃城址はすぐだった。

 そこには解説板があって、それを読むと岩櫃城の歴史は大きく三つに分けられ、はじめにここを支配したのは建久年間以降在城した「前の吾妻氏」と呼ばれる一族で、下野横領使藤原秀郷の三代の孫従五位下左馬允兼光の七代の孫兼助(吾妻権守上野介と称す)の子兼成(吾妻権守と称す)の八代の孫吾妻太郎助亮であったとある。
 これを読むかぎりでは兼光の代から在城していたのか、それとも助亮の代から在城したのかはよくわからない。

 助亮が尾張で戦死したのち、その子助光(吾妻四郎と称す)が嗣いだがやがて滅亡したとあった。
 おそらく平安時代末期の争乱のなかで活動した在地の武士のひとりであったのだろう。

 その直後、延応年間になると下河辺庄司進行家が岩櫃の妖賊を戮した功により城を領することになった。
 この妖賊というのが吾妻助光のことなのか、それとも別のなにものかなのかもわからない。
 これを「後の吾妻氏」という。

 行家の孫行盛が碓氷の里見氏と戦って敗死したのち、その子の千王丸が榛名の僧房に逃れ、やがて安中城主斉藤五郎梢基により姓を冒し斉藤太郎と称したのち、上杉憲顕に閲し憲行と称し、延文年間に榛名の僧兵の援助を借りて仇敵里見を討ったとあった。
 「後の吾妻氏」は鎌倉時代中期から南北朝期に一帯で活動した武士のようである。

 その後海野能登守が憲行五代の孫基國を越後に追ったのち、真田昌幸の配下に入り、矢沢薩摩守を城代としたが、元和二年に徳川氏によって城を破却され、岩櫃城の歴史を閉じたという。
 岩櫃山はさすが険しい岩山だけあってローカルななりになかなか華々しい歴史のある山だ。

 説明板を筆写していたら、底冷えがしてきたので、腰を上げた。
 城址のすぐ下のリンゴ畑のなかの道を下っていくと、国道に出てしまった。