旧皆野村・金崎村・大淵村街歩き
【年月日】 |
2024年5月4日 |
【タイム】 |
皆野駅(9:43)−角屋(10:013)−親鼻の渡し(皆野側)(10:48)
−親鼻橋(11:03)−長興寺(11:47)−旧永保社(12:43)
−栗谷瀬橋(13:12-13:35)−国神神社(13:45)−青木巡査殉職碑(13:55)
−長楽寺(13:59)−金子惣太郎殉難碑(15:13)−皆野町役場(15:57)
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【地形図】 |
鬼石 寄居 安戸 皆野 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小可)
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明治17年当時、下原に角屋という宿屋があった。
警官隊の鎮圧本部と困民軍両方の本部として利用された。
現在は建て替えられて、当時の建物は存在しない。
東京から派遣された憲兵隊が親鼻の渡し(金崎側)に着いたのは11月3日の午後で、対岸(皆野側)に布陣した困民党軍と、荒川を挟んで銃撃戦が行われた。
この際憲兵隊が携行した銃からは弾丸が出ず、困民軍の火縄銃の威力がまさっていたため、憲兵隊は退却せざるを得なかった。
同年10月31日午後6時ごろ、不穏の情報を聞いた大宮郷警察署の一行と風布村を中心とする困民党の一行が、下田野村と皆野村の荒川河原(現在の親鼻橋付近)で遭遇し、12名が逮捕された。
同年10月31日夜には、新井周三郎に率いられた一隊が、日野沢の谷を下って金崎村にいたり、銀行類似会社・永保社とその周辺を襲撃した。
襲われたのは、永保社(山田増吉宅)、隣家の連合戸長山田懿太郎、国神の平嘉之だった。
山田懿太郎の墓所は長興寺にある。
また、懿太郎家近くには、彼の胸像(レリーフ)がある。
11月4日の朝、官側が来襲したという情報があり、周三郎らが金比羅神社(現在国神神社)に出動したが、異常は認められなかったので、その場で朝飯を喫した。
今の神社は、当時の建物ではない。
11月4日の午前、新井周三郎らが金比羅神社から戻り、長楽寺門前で部隊を整列させていたところ、赤い旗を携えた幹部が騎馬で駆けてきた。
困民軍の一部が官兵襲来と誤解して動揺するなかで、困民党軍に服従していた青木与市巡査が突然抜刀し、周三郎の頭部を切りつけた。
周三郎は昏倒し、青木巡査はその場にいた困民党兵士らによって殺害された。
金毘羅神社は、現在の国神神社である。
周三郎は戸板に乗せられて、皆野村の本陣に運ばれたが、彼の負傷は困民軍に衝撃を与え、本腎崩壊につながった。
困民党が去ったあと、11月5日に、憲兵隊が皆野村へ進行してきた。
栗谷瀬の渡しの船頭だった皆野村の金子惣太郎が、事件参加者でなかったにも関わらず、憲兵付属巡査の粕谷清五郎によって斬殺された。
事件から99年後の1983年11月6日に、地元の人々の協力により、惣太郎の殉難碑が建てられた。
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