城峰神社入口に、自動車をデポし、自転車で吉田町井上集落の万松寺へ。
登り口の表示はないが、墓地の間を登っていくと、廃村粟野(あわの)への山道の入口に出られる。
粟野の地名は、明治17(1884)年晩秋に起きた農民の対国家武装蜂起、秩父事件の歴史に残されている。
この年の10月26日、粟野には、大勢の農民が集合して、激論を交わした。
即時蜂起か、それともしばしの延期か。
指導部は、準備不十分を理由に、一ヶ月の猶予を乞うた。
しかし、集まった人々の多くは、即時蜂起を主張した。
激しいやりとりの中で、斬る斬らぬというような言葉も飛び交ったが、総理田代栄助以下の指導部は、11月1日の蜂起を決意したのだった。
歴史に残るこの事件を決めたのが、粟野の地だった。
粟野には、現在もなお、車道は通じておらず、山道を小1時間ほど、歩かねばならない。
地形図には、3軒の家屋記号が記載されているが、常住しているお宅は、既にない。
道はよく踏まれている。
それもそのはずで、粟野で今なお農業を営むI氏が、この山道をスーパーカブで行き来していると聞いた。
途中の道沿いの、ちょっと平坦なところに植えられたお茶の木が、雑然と伸びていた。
ここにも、家があったのだろう。
右手に金岳の岩壁がそそり立つのが見えてくると、粟野は近い。
文政年間の銘のある、地蔵様と馬頭様には、新しい御幣が飾られていた。
粟野には、石間(いさま)からも、阿熊(あぐま)からも、仕事道の痕跡のような踏みあとが登ってきている。
石間の漆木(うるしぎ)には、秩父困民党の梁山泊と化していた、副総理加藤織平宅があった。
加藤は、事件後絞首刑。
屋敷のそばに、「志士」と彫られた墓が建つ。
同じく石間の谷の半根子(はんねっこ)には、困民党発起人で、丙大隊長の落合寅市宅。
想像を絶する拷問に耐え抜き、出獄して帰宅ののちは、死ぬまで事件の正当性を叫び続けた。
阿熊の室久保には、銃砲隊長の新井駒吉宅。
ここは、事件直前まで、田代が逗留していた当時のままの家である。
さっき登ってきた井上集落は、会計長井上伝蔵や乙大隊長飯塚森蔵の家があったところ。
井上は、欠席裁判で死刑判決を受けながらも、偽名を使って北海道に逃れ、人生を全うした。
飯塚は、同じく四国で生涯を終えた。
なんのことはない。
自動車のなかった時代、どこから登っても小1時間で行き着ける粟野は、秩父事件の震源地であるこの一帯で、もっとも交通便利な場所であったのだ。
この100年余の間に、交通の要所は、逆に、交通から疎外されることとなった。
地蔵様や馬頭様は、目を血走らせて行き交う困民党の農民たちを、どのような思いでごらんになったのであろうか。
そして、通る人もまれとなった今を、どう思われているだろうか。
あたりが開けてくると、粟野。
道下の家は、廃屋のようだったが、I氏の畑には、大根がよくできていた。
ここから城峰山への尾根道は、か細い。
尾根の左を巻く踏みあとに入ると、すぐに道をロスト。
シカ道を拾って尾根に上がったところが、675m三角点で、助かった。
これに懲りて、あとは尾根をはずさないように行った。
この先は、前方に見える送電鉄塔をめざして進む。
たまには歩く人もいるらしく、要所に手製の道標もあった。
送電鉄塔の下は、たいへん見晴らしがよい。
ここまで休まなかったので、小休止。
鉄塔から先、しばらくは巡視路なので歩きよいが、すぐにヤブ道に戻る。
左下には、半納の集落。
秩父事件のときには、集落ぐるみで警官隊を翻弄し、警部1名を殺害して、首級を辻にさらすというほどの闘志を示した。
現在は、道路こそ通じているが、日常生活には不便なことこの上ないという理由で、集落ぐるみ移転の願いが出ていると聞いた。
城峰神社の狛犬
 すばらしい体格をしている |
この100年余の近代化の得失については、さまざまな評価があってしかるべきだが、かつてエネルギーに充ちあふれていた山里に、人が住めなくなっているという事実から、目をそらしてはいけないと思う。
皆野町との境界に入ると、道は広くなったりヤブに戻ったりを繰り返すが、電波反射塔の立つ城峰山は、すぐ目の前だ。
転げ落ちるようなところをいったん下り、登り返していくと、城峰神社に行く車道に出た。
そういえば、ここ城峰山は、一等三角点の山なのだ。
測量師吉田は、農民兵士によって、室久保の新井駒吉宅に連行され、田代栄助から、いくさへの助力を乞われる。
後日、吉田自身が提出したリポートによれば、田代は、自分たちが武装蜂起に至った経緯を縷々説明したのち、「まずは秩父郡一円を平均し、応援の来着を待って埼玉県に迫り、いずれ純然たる立憲政体を設立しようと考えている。しかし、わが党には軍事にくわしい人材がいない。そこで先生に、総指揮役をお願いできまいか」と要請したという。
城峰神社の狛犬は、秩父ではごくふつうの、お狗(いぬ)さま。
本殿の前にある一対は、目が金色に塗ってあり、たいへん迫力がある。
本殿わきのは、一頭しかないが、何となく可愛らしい表情をしていた。
本殿で拝礼すると、「将門」と大書した扁額。
ここは、朝廷に反逆した平将門伝説の山でもあるのだ。
以前は、小さなやぐらがあるだけだった城峰山の山頂には、いつの間にか巨大な電波塔ができていて、驚いた。
石間峠まで自動車で来れば、徒歩5分くらいで山頂に登れるから、ここも山歩きの対象とは言えなくなりつつあるのかもしれない。
しかし、山の品格は、登る人の心の中に存すると思う。
電波塔は途中まで登れるようになっていたので、登ってみると、もやがかかってはいたが、南は奥秩父全山から武甲山あたりまで、西は両神、父不見、二子、北は御荷鉾連山を一望できた。
自動車デポ地点まではすぐだった。
自動車に戻って落ち葉かきをし、野良仕事をしてから家に帰った。