家から、まず音楽寺へ。
車道から巡礼道に入った。
2軒ほどの家のあるところに折れた馬頭尊。
「馬頭観世音」の「音」の字が欠落している。
建立年月日は「安政五歳戌年霜月」と読める。
この道も古い道なのだ。
音楽寺の上の小鹿坂峠からは、坊平に向かって下っていく沢道をとる。
ワサビ田らしいところを左に見て少し行くと坊平の公会堂の前に出た。
坊平から府坂峠方面に国道をいき、道下酒店の看板の前の砂利採取場から品沢峠へ。
荒れた用水池の横を通り、ゆるく登っていくと、道は二手に分かれる。
左の道を行ったが、すぐに消えてしまったので、伐採地を急登して支尾根の峠道に出た。
品沢峠は、道標もなにもない三叉路。
峠のすぐ上に六地蔵の石塔。
石塔には、「南無地獄道法性地蔵尊 南無餓鬼道陀羅尼地蔵尊 南無畜生道宝陵地蔵尊 南無修羅道宝印地蔵尊 南無人間道鶏亀地蔵尊 南無天上道地持地蔵尊」という六地蔵の称名と、「大正六年十二月 立主 島田寅吉」という建立年・建立者名が彫りこまれていた。
品沢峠から品沢へは10分程度の下りだ。
降りついたところは養豚場で、そのすぐ先に八人峠の入口がある。
ここは、わきの家のガレージにペンキで大きく書いてあるし、古い石の道標もある。
正面には「品澤ヲ経テ小柱皆野村方面 指峠ヲ経テ長若村小鹿野町方面」とある。品沢から松井田に抜ける峠が指峠というのだということが初めてわかった。
別の面には「八人峠ヲ経テ下吉田村札所三十三番」「昭和三年十一月十日 大田村在校軍人分会第三斑建設」「五大典記念 寄附上原道○」と彫られている。
最後の「○」のところは土に埋もれてしまっていて読むことができない。
すぐに沢から離れ、斜面を登っていくと、前方に不審な建物。
八人峠のすぐ下あたりに、広大な平地。
おそらく、ゴルフ場だろう。
八人峠から小坂下への旧道もノイバラの茂った廃道同然の道。
それを強引に歩いていくと、桟道が崩壊して通行不能。
小型の「ようばけ」のようなところで、褶曲した岩層が露出しており、手がかりもない。
上はもろい岩場で下は滝のため巻くに巻けないので、思い切って飛び移った。
桟道崩壊地のすぐ先でまた変わった石碑。
碑面には、「奉勤請首霧八龍神」と大書してあり、わきに「日月順還晴朗」「国家強健昌栄」とある。
碑裏面の由来によれば、昭和恐慌のおり、政府の勧奨によって作られた「小坂下水路」の完成を記念する碑だった。
興味ある碑だが、これについては『吉田町史』にも出ていない。
そこからすぐ下で沢を渡ると小坂下耕地の一画の桑畑に出る。
ここから札所方面に向かって道路を歩く。小坂下では耕地整理をしている最中で、外国人労働者の人が重機を動かしていた。
札所33番菊水寺(長福寺)まではすぐだった。
途中「ふじや」という昔の巡礼宿などもあり、なかなか雰囲気のあるところだ。
バスに乗って秩父へ帰った。