草むらの中に困民党の足跡をたどる
−出牛峠から秩父新道−

【年月日】

1992年1月25日
【同行者】 単独
【タイム】

野上駅(11:14)−唐沢峠分岐(11:39)−出牛峠(12:12)
−いろは橋バス停(12:45)

【地形図】 鬼石

唐沢峠分岐の道標

 出牛峠といえば、秩父事件の中でひとつの岐路となった峠だ。

 明治17年11月4日の夜、秩父困民党の甲副大隊長、大野苗吉にひきいられた困民軍の主力部隊は、本庄から中山道を東京へ攻め上るべく、野上からこの峠を越えて秩父新道に出た。
 そしてこの日の深夜、児玉町の手前金屋村で東京鎮台兵と銃撃戦をかわし、壊滅した。
 その結果を官側は「わが軍大勝利」と打電した。
 多くの農民兵士が、この峠を、生きて再び越え戻ることはできなかった。

 秩父鉄道の野上でおりる。

 国道を渡って落合眼科の方へ歩いていく。
 落合眼科の前には出店が出ており、あいかわらずにぎわっていた。
 右にカーブする道をさらに道なりにいくと、唐沢峠を越えて出牛に通じる県道。

 道ばたに水田開拓の記念碑が建っている。
 さほど古いものではないが、米の自由化が叫ばれる中、これを建てた人たちはいま何を思っているのだろうかと考えさせられる碑だ。
 見る人もなく、草むらのなかに埋もれているのが口惜しい。

 橋を渡ったところに、長瀞カントリー倶楽部入口の大看板。
 右手の丘の上はこのゴルフ場の造成現場で、山はだが痛々しく削られている最中だった。

 石柱に彫られた道標に従って、ゴルフ場への広い道を左に見送り、唐沢に沿った林道を行く。
 ようやくいくらか峠道らしい雰囲気。

 峠道と林道の分岐点から、すぐ前の支尾根にとりつく踏みあとに入る。
 ここは何本かの踏みあとがあり、ちょっと迷うところだ。
 はじめは荒れた道だがすぐに落ちついた山道。

 植林と雑木が交互にあらわれるなか、ゆるく登りつめていくと、ほどなく間瀬林道にぶつかる。

 ここが出牛峠だ。
 これを示す道標もなにもない。
 秩父事件について多少なりとも調べたことのあるものなら、知らぬはずのない出牛峠の今の姿はあまりにもさびしい。

 出牛側に石柱が建っており、それには、南面に「右 野上樋口道」、西面に「左山道」、東面に「天盃拝受記念 四方田権十郎 仝トキ 四方田嘉平建之」、北面に「大正六年四月 賛助者金澤学校同窓会」とあった。

 四方田権十郎と四方田トキはなぜ天盃を拝受したのだろう。
 稀に見る長寿でもあったのだろうか。

 四方田嘉平という人はおそらく権十郎の息子であろう。
 それではなぜ金澤小学校の同窓会が道標建立を賛助しているのだろう。
 いろいろと疑問がわいてくる。

 ここの下りは峠道らしいしっかりした道だった。
 のどかな日だまりのなか、右に小さな社を見て過ぎると峠から10分ほどで秩父新道に出た。

 バス停のベンチでご老人といっしょになった。
 その人は野上から嫁にきた人で、昔は出牛峠をしょっちゅう越えていたものだということだった。
 歴史のあるこの峠も、今や草むらの中に埋もれようとしている。
 皆野町営バスの車窓からは宝登山ゴルフ場建設による大破壊の現場がよく見えた。
 歩いたのは1時間ちょっとだったが、考えさせられることの多い峠越えだった。