三成が見た風景
−佐和山城址−
【年月日】 |
2024年5月18日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
鳥居本駅(12:02)−物生山(12:52-13:30)−弁天山(14:02)
−佐和山(14:23)−龍潭寺(14:43)−井伊神社(14:50)
−長寿院(15:01)−彦根駅(15:31)
|
【地形図】 |
彦根西部 彦根東部 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小)
|
今回は、京都駅や彦根駅の乗り継ぎがあまりうまくいかなかったため、スタートがやや遅れた。
近江鉄道を鳥居本駅でおりて、草ぼうぼうの踏切を渡り、佐和山に向かって歩く。
鈴鹿の方向にそれなりの山は見えるが、霊仙山とかは見えていない。
近江も田植えの真っ最中で、植えたばかりの稲がぐったりしていた。
孟宗のヤブの中につけられた道を行くとあちこちに墓地がある。
なんだかあまり開けた場所でないので、近年になってヤブ化したのかと思える。
尾根に上がってゆるゆる歩くと、ほどなく物生山。
メシどきなので、早くもここで大休止だが、佐和山はガスの使用禁止だったので、ここでラーメンを食っておいてよかった。
前日の疲れが残っていたのか、物生山から佐和山へ向かうのに、方向を間違えた。
南へ向かう尾根道はややヤブっぽいが緩やかで、歩きやすい。
さっそく堀切が出てくるが、よく歩かれているせいだろう、ずいぶん崩れていた。
道の両側には、モチツツジが咲く。
このツツジは東日本では見ないので、自分には珍しい。
草花としては、キンランが一輪だけ、咲いていた。
弁天山を過ぎ、佐和山に登るところもたぶん堀切だと思う。
多少急な登りになって、西の曲輪。
精巧ではあるが、規模はすこぶる小さい。
佐和山城の本曲輪はさすがに、そこそこの広さだったが、関ヶ原の松尾山に築かれた、小早川秀秋の陣地より小さい。
展望はまぁまぁで、安土城のある繖山の向こうに琵琶湖。その彼方に比良連峰が見えるはずだが、霞んでいて見えなかった。
反対側には伊吹山。
関ヶ原がその麓だと思うと、三成が気の毒に思える。
モンキアゲハが忙しく飛ぶ。
ここで、石田三成のと対話。
(おれ) みつなりさん。
(みつなり) おう、よくおわかりになられた。
(おれ) たしか京都のどこかでお休みではなかったんですか。
(みつなり) 蝶の姿になってな、あちこち飛び回っておるのよ。
(おれ) ここは景色がいいですね。
(みつなり) ああ、琵琶湖の手前に見えるのが信長さまのおられた安土の城じゃ。伊吹山の右が関ヶ原よ、ははは。
(おれ) さぞ悔しいでしょう。
(みつなり) 馬鹿をいうな。そちらの世とこちらの世は別世界じゃ。さすがに家康どのには含むところがなくもないが、道で会うたら挨拶くらいはいたす。哀れなのは秀秋よ。400年たつというのに、許してくだされというて、未だに泣き暮らしておる。いくさに負けたのは残念だが、致し方なかろう。それよりわしは、あのいくさで刑部どのという無二の友人を得た。思い出話が楽しいわい。
(おれ) コーヒー飲みます ?
(みつなり) そんな泥水みたいなものを飲んで、腹でもこわしたらなんとする。わしは遠慮する。
(おれ) 相変わらず、食べ物に気を使われてるんですね。さすが。
下山は先ほどの堀切まで戻って、西側へ。
あっという間に大洞観音堂へ下り着く。
とりあえず、お堂を拝んで先へ行くと龍潭寺。
貴重な襖絵などが拝観できるという張り紙があったが、ここはスルーした。
山門近くに、石田三成の銅像があった。
通りへ出ると駐車場で、ここから城址や近くの寺社に行けるようだ。
清凉寺にお参りするのを忘却して、井伊神社へ。
家康の時代に、井伊直政は大活躍したが、その後井伊家は彦根に封ぜられた。これだけでもずいぶんな因縁だ。
彦根城主は毎日、佐和山廃城を見ながら暮らさなければならなかったのだから。
誰でも知っている井伊直弼は幕府強硬派だったが、戊辰戦争では官軍の先鋒となる。
無論、仕方がないのだろうが、多くの人は釈然としないだろう。
ところで神社だが、拝殿は覆屋によって閉鎖されており、見ることもできない状態で、もちろんお祭りがされている様子はなかった。
最後は長寿院(弁天堂)へ。
ここはお寺だが、見たところ神社のような作りになっている。
山門には、毘沙門天と地神の像がおかれていたが、どういう意味があるのだろう。
短い時間だったが、中身の濃い山歩きができた。
|